専門家の仕事は優しく個性を活かすだけ−否定的文化からの脱却
過去に電子書籍「スポーツ、仕事、育児における楽しさの喪失:個人の責任ではない」を出版いたしました。私は整形外科医およびスポーツリハビリテーション専門医として、多様なスポーツ選手の外傷治療に従事してきました。
診療対象は、児童・学生アスリート、社会人競技者、愛好家、そしてエリートアスリートに至るまで、幅広い層に及びます。
取り扱ってきた症例は多岐にわたり、外科的介入を要する重度の外傷から、精神的な問題に起因する競技モチベーションの低下まで、包括的なアプローチで対応してきました。長年の臨床経験を通じて、一つの重要な洞察に至りました:
「外傷の発生は個人の責任ではない」
この認識は、日々の診療において患者に対して繰り返し伝えているメッセージでもあります:
「競技や活動を楽しめなくなったことは、あなたの責任ではない」
ここでいう「競技や活動」とは、個人が全力を傾注している分野や、達成を目指している領域を指します。
スポーツやからだの医療現場にて
スポーツ関連の外傷で来院する患者の背景を分析すると、主に二つのカテゴリーに分類されます:
偶発的な事故による急性外傷。ふとしたアクシデントにより外傷を負った場合です。これには軽度の擦り傷から、手術を要する骨折まで含まれます。これらの患者は、治癒後は再診の必要性が低下し、医療機関との関わりが自然に終結する傾向にあります。「病院に用がないほど元気だ」と受診されなくなる嬉しいタイプです。
運動器における反復性の症状を呈する再来院患者。何度も繰り返して受診するリピーターです。医療機関においては、このような再来院患者の増加は必ずしも望ましい現象ではありません。これは怪我が完治に至っていないことを意味するからです。なかなか治りにくい関節や腱などに起きる繰り返す痛みや、調子がいいと痛くなくて調子が悪いと途端に痛くなる症状などです。一旦痛くなると気分まで滅入ってしまうほど。こういったリピーターたちの精神状態にも影響を及ぼすことがわかりました。
カラダに起きる怪我だけを治しても、大元を止めない限りキリがない
怪我を契機に病院にやって来る選手はまだ良い方です。そのため、私は落胆した表情で来院する選手に対し、まず以下のような言葉をかけるようにしています:
「怪我をしたのは君のせいじゃない」
「これまでひとりで本当によく頑張ってきた」
近年のスポーツ界では、競技成績への過度の注目により、短期的な技術向上に偏重した指導が行われる傾向にあります。将来的に競技生活を終え、一般社会で生活することになる個人としての心身の基盤形成が軽視されている子どもアスリートが多数存在します。そして成人後、「スポーツには外傷がつきもの」という誤った認識を広めることになってしまいました。
運動能力向上の本質:思考力の育成
運動神経を良くするためには、思考力をよくする。これが大前提だと思います。
競技技術の向上のみに注力し続ける限り、真の運動能力の向上は期待できません。感情や思考の基盤を整えることで、自然に競技技術が向上するという持続可能なアプローチを獲得することが重要です。なぜなら、これが結果的に最も効率的な方法だからです。
人間が生きる上で最も大切なものはなんでしょうか。
人は幸福を追求するために生きており、幸福は感情や思考を通じて感じるものです。したがって、選手の感情や意見を宝物のように大切にする必要があると考えます。
本来、スポーツは楽しみであり、個人の成長と幸福を促進するツールの一つであったはずです。この基本的な前提が崩れているために、スポーツ現場での外傷が蔓延し、以下のような誤った認識が文化として定着しつつあります:
スポーツ参加は外傷を伴うのが当然
スポーツは楽しくない
スポーツは苦痛に耐えることである
本来あるべき認識は以下の通りです:
スポーツは楽しい
スポーツは幸福をもたらす
スポーツを通じて自己成長を遂げる素晴らしい個人という認識であるべきです。
具体的事例
全国的に有名な強豪校のバレーボール部に所属するエースの事例を紹介します。月刊マガジンにも常に名前が載っていた選手です。「足関節後方部の疼痛によりジャンプが困難」という主訴で来院しました。つまり、アキレス腱に障害が及んでいる状況です。
このような外傷の一般的な治療法は、罹患部位への注射療法や理学療法士によるリハビリテーションです。重症例では手術的介入が必要となる場合もあります。
懸命な治療の結果、練習復帰が許可されてから数ヶ月後、再び来院されました。治療が終了したばかりであったため、状況を確認すると、今度は膝関節に疼痛があるとのことでした。
治療がせっかく終わったばかりでどうしたのかと尋ねると、表情が異常に暗く、ただ一言「膝が痛い」と言いました。私とは目も合いません。
さらに話を聞くと、「全国大会が近くて練習量が急に増えて、嫌になった」と。
「捻挫ぐせ」というように「怪我をする癖」が形成されていることに気付きました。
メディアで目にする魅力的な選手や優れたトップアスリートも、実は心理的な問題を抱えています。その心理的問題が、繰り返し身体に外傷を引き起こす要因となっているのです。その根底にあるのは固定観念、特にネガティブな固定観念による自己肯定感の低下です。
つまり、私が身体的治療を施しても、この心理的な問題を解決しない限り、再び外傷を引き起こし、医療機関に戻ってくることになるのです。
反復性の外傷や不調に悩むアスリートが非常に多いことから、医療機関での対応だけでは時間的制約があることも認識しました。
否定的な固定概念を手術する発想
外科医として、身体に存在するネガティブな固定観念を除去する、いわば心理的な手術のような方法の必要性を感じ、その探求を始めました。
そして到達した結論が、思考(マインド)の変革です。つまり、思考力や考察力を強化し、真のアスリートとしての成長を促すということです。
欧米のスポーツ教育では当然とされるこのような生きる上で重要な思考力の教育が、日本国内のどの教育機関やスポーツ施設でも実施されていないのが現状です。この記事は、愛するスポーツが他者を傷つける存在になっている文化への憤りと、スポーツの楽しさを失った方々の無念さを、私自身が内面化し、それらを愛情、勇気、優しさなどのポジティブな要素に変換し、それを原動力として凝縮したものです。成人も子供も、スポーツ経験者も未経験者も、競技成績の高低に関わらず、全てのスポーツ関係者に向けたものです。技術の巧拙は問題ではありません。スポーツの楽しさを再発見したい人々に向けて。
スポーツは芸術
私は日本国内の様々な場面、例えばスポーツ、受験競争、学歴社会、名誉や業績など、激しい競争社会を約40年間経験し、その後渡米して、競争社会の代表格であるアメリカのスタンフォード大学に進学しました。日本人として初のスポーツ医学研究者としてです。
そこで悟ったのは、もはや競争は不要だということです。
より正確には、「競争を楽しむべき場」を明確に選択し、それ以外の生活や環境では競争を避けるべきだということを理解しました。ただし、常に他者と比較する習慣や、叱責されるのではないかという不安を抱える人々にとって、この明確な区別は非常に困難です。
本来の「競争すべき場」で競争したい人は、存分に競争すべきです。一方で、「競争すべきでない場」では、絶対に競争を避けるべきです。
「競争すべき場」とは
それは、単に公平なルールが存在する環境です。その代表例がスポーツ活動です。
世界標準のルールを採用し、局所的なルールは使用しないこと
実際の競争の前に、競争を楽しむマインドセットを形成すること
決して個人の人格を攻撃しないこと
「競争の場」を離れた際は競争に関する話題を持ち出さないこと
相手が競争に応じない場合は強要しないこと
年齢差、体格差、性別差、経歴の差異など、競技に無関係な要素をスポーツの場に持ち込まないこと
競技の場を離れた際は、感謝と友情、愛情を持って相手を尊重すること
これらの原則が適用される場としては、例えば試験の得点競争、暗記コンテスト、料理コンクール、そして私が生涯の仕事としているスポーツなどが挙げられます。重要なのは、公平なルールが必ず存在することです。
まとめ
スポーツの本質的な価値:
スポーツは単なる競技ではなく、文化や芸術としての側面を持っています。
本来、スポーツは楽しみや幸福をもたらし、個人の成長を促すものです。
スポーツを通じて、競争だけでなく協調や相互理解を促進することができます。
スポーツと芸術は、単なる娯楽以上の役割を果たす:
社会課題の解決や、人々の well-being(ウェルビーイング:健康増進) 向上に貢献する潜在力を秘めています。
辛い現実や社会問題を打破する力を、スポーツや芸術は持っています。